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2008年08月16日

昔の駄菓子屋と今のコンビニ世代

 今ではすっかりと見かけなくなった駄菓子屋。僕が幼かった頃は、あちらこちらに駄菓子屋があったものである。百円あれば充分に堪能出来た時代。くじ引きの一等のオモチャ欲しさに何度もチャレンジしたり、今では絶対食べられないような甘いだけのお菓子を食べたりして遊んだものだ。そんなお菓子やらくじ引きでスカを引いたりするのが楽しくて仕方がなかった。

 今思うに、くじ引きなど一等のあたりの券など入っていなかったように思える。子供心にギャンブルする楽しさを植え付けるための小道具に過ぎなかったのではないかと邪推してしまう。たった十円で何百円かいやもっと高額だったのかもしれないが、それを当てにいくために随分と悪時絵を働かした奴もいる。一等のあたり券を偽造する奴が出て来たりする。所詮、子供の浅知恵なのですぐに露見してしまい、コラッーとおこなれながらも逃げ出すのが楽しかったりする。

 僕らの時代で流行ったのが銀玉鉄砲だった。あまり威力がないが至近距離からうたれるとこれがまた結構痛い。折しも、石原裕次郎、渡哲也が出演していた「西部警察」などが流行っていたこともあり、撃ち合いをするのが楽しかった。小学校高学年になると、プラモデルでモデルガンを作る楽しさを覚えた。銀玉鉄砲から、プラモデルのモデルガンへと変わり、相変わらず、近くの神社の境内で撃ち合いをしていた。今度は火薬なので音だけであそんだりしていた。

 あと、よく遊んだのが爆竹遊びである。子供というのは時に残酷とも言える所業をやってのける。僕の友人Fはカエルをつかまえてはカエルの生側を剥がすことに恍惚を覚えていた。カエルにとってはたまったもんはないだろうか。そんなことを行っている僕もカエルやヤモリなどをつかまえては口に爆竹をくわえさせ火をつけて爆発するシーンを随分と楽しんだものである。今になって思えば残酷だが。それだけでは飽き足らず、今度は爆竹に火をつけどれだけギリギリまで持てるかと云うチキンレースをやったものである。僕も挑戦して何度かは手の中で爆発して痛い思いをしたことを思い出す。

 後は、友人のY君が住んでいるマンションで鬼ごっこをしたり、またしても爆竹遊びをしたりした。最上階まで昇っていき、爆竹に火をつけてから落下させて途中で爆発するのを見ると言う単純な遊びに興じたものである。しかし、度が過ぎれば学校に連絡が行き、マンションでの爆竹遊びは禁止となったのである。それも当然であるが。

 こうやって昔の遊びを思い出してみると、携帯用のゲーム機なんてもちろんない時代だが、子供なりにルールを作り楽しんでいたことを思い起こさせてくれる。今の子供たちが可哀相だとは思わない。時代に即した遊び方があるのだろうけれど、昔、僕らが味わった探検心とか冒険心というものが少し希薄になっているようで仕方がない。それに特定の少人数だけで遊ぶ傾向がある。僕らの時代は、同世代の男女やお兄ちゃんやちびっ子まで一緒に遊んだ記憶が片隅にある。しかも、その上、いたずらが度をこしてしまうと、叱ってくれる近所のおっちゃん、おばちゃんがいた。現代では考えにくいことだ。

 僕らが大人になるにつれ、親となった今、子供たちに伝えられるものは何だろうと考える。近所の悪ガキがやんちゃをしていても止めない、見て見ぬ振りをしたりする。これでは、礼儀作法や常識を教えないのと一緒である。自分さえ良ければそれでいいという風潮が僕たち大人を含め蔓延しているのである。それが故に、子が親を殺し、親が子を殺すという悲惨な時代になったのだろう。一昔前は、良い大学に入り、良い会社に入れば安泰だという幻影が空く長良図もあったが、バブル崩壊以後、その幻影すらみられなくなってしまった。そしたら今の子供たちは何を信じて生きていけば良いのだろうか。幸せっていうものを根本的に考え直す時期にきているのではないかと僕は考えている。出来ることなら今の子供たちは携帯用ゲーム機を置いて外に出てやんちゃをしてほしい。それで、ここまでやったら怒られるというのを肌で感じて欲しい。逆に僕を含め大人たちも知らない子供でも度が過ぎれば怒るということを勇気を持って実行してもらいたい。そうすれば、世の中がちょっとだけ住みやすくなるかもしれないから。
posted by Genken at 14:25| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月06日

引き続き表現について考えてみる。

 昨日に引き続き表現についてもう少し考えてみることにする。
 
 僕の中では表現者やクリエイターに憧憬の念を抱いてしまうのである。自分の考えている事象を言葉に置き換える。または、絵画や映像としてビジュアル化できる能力が羨ましい。

 どういうことかと言えば、自分の頭の中でモヤモヤとしている概念(想念)というのを言葉に変換しようとすると、その概念が瞬時に逃げてしまう感覚が存在する。その概念をどのように言葉に表現できるかが、僕にとっては、表現ということになる。

 その概念を言葉によって手にしようとした瞬間に逃げてしまうような感覚を常日頃確実に知覚できなかったとしても、自分がモヤモヤとした概念を他人が書いた文章の中で読んだ瞬間に納得できてしまう感覚を覚えたことはないだろうか?

 僕は、そのような文章に触れるたびに、感嘆の念を抱きながらも嫉妬の念を感じざるを得ないと同時に自分で表現出来ないことに対して苛立ちも感じてしまう。

 例えば、TVや映画で感動したり、泣いてしまったとしよう。その感動を相手に伝えようとすればする程、伝わらない経験をしたことはないだろうか?

 言葉たらずや、あまりにも興奮しすぎて伝えたい気持ちばかりが先走ってしまい論旨が飛躍したりするからだろう。こういう場合、自分の場合は主観が勝ちすぎて、客観視でしていない状態が多いのである。そういう時には、出来るだけ自分の感情や感動から距離を置くことが重要である。

 ブログを書いてネット上に公開する行為というのは、プロであれアマチュアであれ、自分の言葉に責任を持って書かなければいけないと自戒している毎日である。それでいてこのブログは主に映画の感想や批評記事が多いのだが、出来るだけその作品が持っている良い面を探すことにしている。というのも、未だに自分の中では、辛口と悪口の境界が曖昧であるからである。昨日でも触れたように、出来るだけネガティブな感情や感想を書くことをしないように心がけていきたいものである。

 それに加え、ある程度距離をもって好きな映画や海外ドラマ、本について出来るだけ客観的な視点で感想や批評記事を書いていくので、読者の皆様、これからも、おつきあいの程、よろしくお願いします。
posted by Genken at 23:55| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月25日

ムダを楽しむ!

今から約30年くらい前、JRがまだ国鉄と呼ばれていた時代。

駅には伝言板が設置されており、そこには色々な伝言が書かれていた。
もちろん、改札は自動改札などはなく、駅員さんが、一枚、一枚、切符をハサミで切っていたりしていた。

一歩、改札からホームへと足を踏み入れると、そこにはタバコの煙がモウモウと立ちこめていたり、今では思い出すことも少なくなったが、車両にも灰皿が設置されていた。
車窓から流れていく景色も今とは違い、随分とゆっくりと流れていたものだ。

その後、時代が過ぎ国鉄からJRへと変わり、社会も大きく様変わりしていく。
それに、呼応するかのように、民営化したJR西日本は、利益を追求するために、スピードを重視し、いかに効率を上げるかを命題に血眼になっていた。

世間一般では、携帯電話が普及し、駅の構内では、役目を終えた伝言板がひっそりと外され、改札は自動改札機へと変わり、ホームは禁煙となっていく。当然、車両に設置されていた灰皿はどこにも見当たらない。

利便性を追い求めた結果、昔と比べると環境も良くなり、効率もよく目的地にも早くつける。
ただ、その代償として、失ったのは「鉄道は安全である」という神話であった。

効率を高め、さらなる利益重視へと求めるあまり、必要な人員までも削減していった、安全軽視の姿である。

その先にあったものは、去年の今日におこった、JR西日本で起こった福知山線の脱線事故である。

当然、JR西日本には、利益追求を追い求めるばかりに、安全性を軽視した責任は重大である。道義的責任はもちろん、司法の場において裁かれるべきであろう。

ただ、冷静に考えれば、私たちが、普段働いている職場でも、大なり小なり、似たような状況にあっているのではないだろうか?

少しでも利益をあげるために、ムダ・ムラ・ムリをなくそうとムダに努力を続ける職場や会社。
例えば、やせている女性がさらにダイエットをするかのように、落とす贅肉がないのにもかかわらず、無駄な努力を続けたりする。

ムダな努力はやがて、ムリを呼びムラがでてきたりする。皮肉なことに、ムダ・ムラ・ムリをなくすために努力することが、さらなるムダ・ムラ・ムリを生んでいる皮肉な現実。

そんなムダな努力に疲れ、ストレスにさらされている現代。そのために大きな歪みが生じ、悲惨な出来事が多発したり、考えられもしない基本的なミスをすると考えられる。

もはや、そんな状況では車窓から流れる景色を楽しむ余裕もなくなっている。

そのためには、やはり、スピードや効率ばかりを追い求めるのではなく、少しくらい、ムダがあっても良いんじゃないかという、ゆとりを取り戻す必要があるのではないだろうか?

自分自身も、もう一度車窓から流れる景色を楽しめるように、ゆっくりとした時間を味わえるように、ゆとりを取り戻すことにしよう。

まず、手始めにムダを楽しむことにしよう。

ひょっとしたら、今まで見ていた景色とは、全く違った景色がみえるかもしれない。

楽しみである。

posted by Genken at 23:23| 兵庫 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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