2000年
監督 ブライアン・シンガー
出演 ヒュー・ジャックマン(ローガン(ウルヴァリン)) パトリック・スチュワート(プロフェッサーX) イアン・マッケラン(マグニートー)
DNAの突然変異により産まれたミュータント。それは、超人的なパワーを持った進化した人類の姿でもあった。ミュータントの力に恐れを抱いた人類は、合法的に迫害できる「差別法案」の立法を目指すのであった。
何とか、ミュータントと人類の共存を願うプロフェッサーXは、ミュータント集団”X-MEN”を率いていた。一方では、ミュータントの存在を認めない人類に対して業をにやしていたマグニートたちはテロ活動を企て人類滅亡をもくろむ。そんな、X-MENたちとマグニートたち両者は一歩も譲ることなく全面対決の様相をていすのであった。
この映画で一番感じ取ってもらいたいのは、ミュータントたちの哀しさである。”人とは違った能力を持って産まれた”。ただ、それだけの理由で迫害されているのである。
この構図は、現代社会でも見受けられるのである。それは、いじめの問題につながっている。その前に、今のいじめと昔のいじめの質が違ってきているという実態があるので、それについて触れてみたい。昔は、スポーツが出来たり、勉強に秀でていたりする子どもに対しては、周囲の子どもたちにも人気があったものだが、どうやら現在では事情が変わってきているらしい。いじめられるのは、昔、周囲に慕われたりした子どもが標的となっているとのことだ。
その理由としては、「ウザイ」とのことである。なぜ、ウザイという気分になるのか?人は、自分よりも圧倒的に才能を持っている人間に対して、羨望のまなざしをおくる。ただ、その感情とは裏腹に嫉妬心、もしくは劣等感を抱く場合がある。その相反する感情をどう処理していいのかわからずに、いじめが発生しているのではないだろうか?それに加え、20年〜30年前では考えられない程、技術も発達している。一番、良い例が携帯電話である。携帯電話が普及していない時代では、必ずといっていいほど、友達の家に電話したりするときには、親が出てきたものである。しかも、電話をする時間も考えなければならないのである。
ところが、現代では携帯電話が子どもにも普及し、直接子ども同士で連絡を取り合える状態になっている。あるTV番組で言っていて納得したのは、あるひとりの子どもをいじめる時に、その子に気付かれずにメールなどで他の子ども同士で連絡を取り合い、気付けば昨日まで普通に話していたのに、無視されるといった状況になっているというのである。この話しを聞いたときには、あまりにも便利になったがゆえの歪みが出てきているんだなと感じてしまったのである。
ただ、何も子ども同士の間だけでこのようなやり取りが行われているわけではない。これは、逆に考えれば大人社会の縮図ともいうべき現象ではないだろうか?
圧倒的な能力の差を見せつけられて感じる羨望感や劣等感、嫉妬、こういった得も言えぬ感情に苛まれて苦しんでいる大人の後ろ姿を子どもたちが見て感じ取っているからなのだろう。そのことを踏まえて考えないと、いじめというのは、劣等感や嫉妬といった感情の発露ともいうべき状態なので、恐らくなくなりはしないだろう。だけど、誰かが守ってくれているという安心感を与えることが出来なければ、今後もいじめは増えていくであろうし、いじめの質自体もいっそう陰湿になると、個人的には考えてしまう。
話しが大分、横道にそれてしまったが、この作品の根底にはそういったいじめや差別に対しての啓示ともとれるべき描写が多々見受けられる。それは、迫害を受け続けるミュータントたちの存在や、迫害をしている人類。迫害を受けているミュータントたちに救いの手を差し伸べるプロフェッサーX。それとは反対に、その迫害に対して怒り・憎悪をたぎらせるマグニート。現代社会の縮図ともいえる作品に仕上がっているのである。
この作品で忘れてはならないのが、ウルヴァリンの存在である。彼にはミュータントという意識はあるものの、過去の記憶が失われているのである。記憶と言うのは非常に曖昧である。本屋に行けば記憶に関する本や、記憶だけでは曖昧なので記録するために、ノート術や手帳術といったたぐいの本はざっと見渡しただけで何冊もあるのである。それぐらい曖昧な記憶でも、ふとした拍子に昔に聞いたことのある音楽や観たことのある映画、もしくはかいだことのある匂いといった感覚で、一気にその当時の記憶が鮮やかによみがえってくる。その普段は表層意識にまで出てこない記憶。しかし、脳はその記憶を覚えている。そういった記憶の積み重ねによって今の自分というものが確立されているのである。
ウルヴァリンにとって、そういった記憶が失われているのである。一体、自分はどういった人間でどのような経験をしてきたのか?自分のルーツを確認することによって、自己の確立が出来ると信じている。そういった姿にはある種の悲壮感さえ漂わせている。
と同時に、現代社会でよく聞こえてくるのが「自分探しのために旅に出る」という言葉。これは、自分でもそうだったのだが、今、自分がやっていることは何の意味もないし、将来何の役にも立たない。自分がやるべきことはこれではない。もっと違う何かがあるはずだ!と幻想を抱いていた時期がある。違う何かとはわからないままに。
結局は、自分探しというのは、将来にむけて前向きに生きていると勘違いしていたのである。先にも書いたように過去の経験、普段、記憶の表面にも浮かび上がらないような経験。そういった数々の経験の集積によって今の自分が成り立っているということをわからずにいたのである。
自分探しといったものは幻想とまでは言わないが、将来に目を向ける前にはまず、過去の自分を振り返ってみて、今自分は何が出来るのか、出来ないのかを把握して、未来の自分に対して地図を作成してやらなければならない。恥ずかしい話しだが、この年になってようやく気付いたのである。
このように、この作品を通して見えてくるのは、自分よりもすぐれたものに対しての劣等感や嫉妬。羨望のまなざしでみてはいるものの、何か釈然としない感情。その感情の発露として行われる差別やいじめ。情報が溢れかえり、そのために、本来の自分の姿を見失い、漂流している人たち。これは、間違いなく、現代社会が抱えている歪みであったりする。この問題をわかりやすく、それでいて楽しめるエンターテイメント作品として仕上げているこの映画には、ただただ感服するばかりである。
オススメ度 ★★★★★ 楽しみならも自分自身を振り返れる作品です。
ランキング今日は何位?
posted by Genken at 23:55| 兵庫 ☀|
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